税・会計よもやま話 tax-accounting

税・会計よもやま話
2021.07.26

夏休みの自由研究 税金を払う理由〜「納税の義務」が誤解の始まりだという話

夏休みの自由研究 税金を払う理由〜「納税の義務」が誤解の始まりだという話

はじめに

私の職業人生とはすなわち、日々「どうすればお客様が税金を払わなくて済むか」を考え実行することに他なりません。さはさりとて、ごく稀にではありますが「税金なんか絶対に払いたくないし実際払ってない」という方にお会いすると、不幸な思い違いをされている方だなと悲しい気持ちになります。どうにも、税金を払うこと=絶対悪だと、日本人は心のどこかで思い込んでしまっているかのようです。

そのような誤った思い込みは2つの不幸を招きます。第1に、この国に住む限り避けられない納税という行為を絶対悪だと信じながら続けることは嫌いな食べ物を延々食わされ続けるようなもので、ストレス以外の何物でもありません。端的に言って精神衛生上よろしくない。第2に、税金憎しのあまりにかえって余計なお金を使うという罠にハマってしまうことがあります。若干の納税を先送りするために多額のお金を使ったり大きなリスクを背負い込むという経済的に不合理で珍妙な意思決定が納税への憎悪により正当化されてしまっている例を時々見かけます。

暑い夏休みだからこそ暑苦しいことを書いてみたい、ということで、この夏は、納税するということや節税するということの意味について、少し大きなテーマでぼんやりと書いてみたいと思います。まず初回の本稿で扱うのは、税金を払うことの意味についてです。

税金とはマンションの管理費のようなものである

さて、税金=悪という考え方の根っこには、税金は自分の財産から一方的に強奪されるものだという発想があるように思います。強盗は確かに悪です。しかし課税を強盗と完全に同一視して果たしていいものでしょうか。

税金は、平たくいえば、国家サービスを維持するためにその構成員である国民がそれぞれ拠出するお金のことです。身近なことに例えれば、税金はマンションの管理費に似ています。マンションの各住人は、管理人を雇ったり共用設備の綻びを修繕していく切実な必要を感じ、自分たちのために管理費を拠出します。管理費の金額の多寡は維持管理にかけるお金の水準に依存しますから、各住人は、まず自分たちにとって必要な維持管理の水準を決め、そのために要するコストを積算し、それを皆で分担する金額として管理費を決めるのが建前です。そうやって自分たちで決めた管理費は皆が必ず支払うのが当然であり、もし支払わないで維持管理サービスに「タダ乗り」する住人が現れれば、そういう迷惑者にはテコでも管理費を支払わせようとします。フリーライダーが増殖すればやがてマンションの維持管理が立ち行かなくなってしまい、困るのはマンションに住む全員だからです。

税金も本質は同じで、自分たちが国から受けたいサービスの水準を主体的を決め、そのために必要な費用総額を皆でどう分担するかの方法と金額を決め、支払っているものなのです。決して我々の意思と無関係に暴力的に財産を収奪する強盗に遭うことと同一視できるものではありません。確かに、国家サービスの内容もそれを賄うための税金の分担額も、自己決定している実感を持つには余りに遠い話ではあります。しかし、それらは選挙を通じて選ばれた我々の代表が国会で決めていることなのであり、もしその決定に不服があれば、迂遠な方法ではあっても次の選挙でそれを是正することができます。

そうであるにも関わらず、税金をビタ一文払いたくない、あるいは、自分は税金を払っていないんだ、と豪語することは、要するに、自分は皆で決めたルールを破って他人の経済的負担にタダ乗りする人間だと自認することに他なりません。

もしマンションの管理費を支払わないで平然と暮らしている住人がいれば、恥ずかしい人だなとは思われないでしょうか?税金を払わない人も同じように思われていいのに、ともすれば、時に世間はそういう人を称賛すらします。何故なのでしょう。

憲法の「納税の義務」が誤解の始まり?

思うに、税は国から強奪されるものという誤解は、一種の被支配者意識に由来しているのではないでしょうか。元青山学院大学学長で弁護士の三木義一先生はその著書『日本の納税者』(岩波書店、2015年)の中で、税制は「お上」が決めるもの、税は「お上」に義務として奪われるものになってしまった理由について、戦後、憲法に「納税の義務」が定められた経緯から詳しく述べられています。その概要を以下に少しご紹介します。なお、本書とその姉妹書である『日本の税金(第3版)』(岩波書店、2018年)は、軽妙な語り口で書かれておりとっつき易く、Kindle版があり手軽に手に入りますので、是非ご一読いただくことをお勧めします。

さて、憲法に「納税の義務」が定められた経緯です。まず戦前、明治憲法には主権者である天皇のために臣民が負う義務として、納税の義務は兵役の義務とともに定められていました。納税の義務がお金を差し出す義務であるなら、血を差し出すのが兵役の義務ということで、当時、血税という言葉も使われていました。戦後、主権者が国民に変わることに伴い、GHQが起草した新憲法草案には当初、納税の義務という言葉はありませんでした。これに対して当時の大蔵省のみならず、保守政党から革新政党までが揃いも揃って「納税の義務」を挿入することを要望し、現行憲法の形となりました。義務を課されなければ国民が納税を拒否するのではないかと恐れたようです。本来、主権者である国民は、自分がどれだけの財産を拠出して日本国の財政を補填するか、自己の所有権の行使として自由に決定できるはずです。もちろん拠出額が小さければ国家財政は小さなものとなり自助努力だけで生きていく社会になることになりますが、そのことも含めて自らの責任で決めることができるはずです。そうであるからこそ本来、国家が国民に納税の義務を課すという憲法規定には意味がないはずであるのに、誰しもが天皇主権の頃の発想から抜け出ることができなかったため、憲法に「納税の義務」が定められてしまいまいました。

いかがでしょうか。戦前の人々と同様、我々はいまだに、税は支配者に差し出すものという意識をどこかに持っていないでしょうか。税金を払わない人に共感する心理は、年貢を納めていた人々が鼠小僧を義賊と称えた心理と通底するような気がしないでしょうか。

そのような意識が抜けきらない理由の1つは確かに、小学校で習う「納税の義務」なのかもしれません。

減税政策を支持する前に〜減税は”アリ”だ。しかし…

これまでに述べてきたように、様々な現実の問題はあれど、税金とは結局、自分たちのために払うものです。そのような観点からもう1つ個人的に気になるのは、減税が感情的に支持される風潮です。もちろん、政策手段としての減税を否定するつもりは毛頭ありません。私個人は必ずしも大きな政府がいいとも考えていません。むしろ減税について九十九由基のようにいうなら、「夏油君、それは“アリ“だ」(注)。

しかし、その議論は必ず、我々が国家から享受するサービスの見直しとセットでされなければならないはずです。あるいは、もし自分たちの生活が苦しくなってきていることについて不満や危機感があるなら、一定層以上への増税が議論されてもいいはずです。そうであるにもかかわらず財源の裏付けなどの観点が欠落した減税主張が情緒的な支持を集める理由も同様に、抜けきらない被支配者根性にあるような気がします。

おわりに〜税金は納めなさすぎも納めすぎも“ナシ“

今回は、税金を払うことにポジティブでいられない心理にスポットライトを当てて、その根っこに何がありそうなのかを考えてみました。たまには実務を離れて理屈っぽいことをお考えいただきますと、嫌いな税金がまた違った姿に見えるかもしれません。

最後に若干の釈明を加えますと、私は決して、納税が多ければ多いほどいいと考えているわけではありません。以上に述べたとおり、脱税は違法であるという以前に、社会参加者としての責務の放棄であるという点で倫理的に非難されるべき行為であると思っています。しかしその裏返しとして、ルールで定められた以上の税金は支払う必要は絶対になく、もしそれ以上の税金を課税当局が支払わせようとするなら、それこそ強盗同然なのだから猛然と戦うべきだという信念で仕事をしています。そういう国家と納税者の緊張関係についてもいずれ別稿で述べてみたいと考えています。

(公認会計士・税理士 峯岸 秀幸)

(注)芥見下々「呪術廻戦 9巻」集英社(2020年)136頁参照。

  ***本記事のタイトルで使用している写真はAya Hirakawaさんの作品です。