税・会計よもやま話 tax-accounting

税・会計よもやま話
2021.08.22

日本に複式簿記の萌芽はあったのか

日本に複式簿記の萌芽はあったのか

以前ある方から、明治より前の日本には複式簿記はなかったのか、と聞かれたことがありました。

少し背景をご説明しますと、私のような会計専門職は、複式簿記の起源はイタリアにあり、その成立がきちんと確認できるのはヴェネツィア商人が使っていた簿記を紹介した1494年のルカ・パチョーリの著書『スムマ』である、そして西洋式簿記が日本に入ってきたのは明治時代であって、それを著書『帳合之法』で紹介したのは福澤諭吉である、ということぐらいは常識の範囲で知っています。

しかし、それまでの間、日本で簿記がどのように発展を遂げていたのか、残念ながらまるで勉強したことがありませんでした。きっとその方もそうだったのでしょう。

よく考えてみれば、簿記は貨幣の流れの記録であり、どんな地域・国であれ貨幣経済が発展すれば必要になるはずです。日本には和同開珎の昔から貨幣があったわけで、何らかの簿記の仕組みはあったはずだよなあ、ということに思い至ります。それがなぜ西洋式の複式簿記に取って代わられることになったのか。

若干の疑問が湧きまして、本を1冊読んでみました。慶応義塾大学商学部の友岡賛教授が書かれた「日本会計史」慶応義塾大学出版会(2018年)です。友岡教授には遠い昔の学部生時代に単位をいただいた記憶があるのにまだ退官されておられない模様。当時どれだけお若かったのか。

さて、本書に日本の簿記史についての論述がありました。結論から申しますと、諸説あるものの、明治よりも前の日本に複式簿記の『萌芽』はあったといえそうです。

以下に『日本会計史』に記されている明治以前の日本の簿記史について緩やかに述べてみます。面白い本でしたのでご興味をお持ちの方は是非原書に当たられてください。

そもそも、日本における最古の現存の会計帳簿は西暦730年代のもので、正倉院に保管されている「正税帳」なる文書とのこと。この正税帳に記載されているのは地方の税収と「出挙」と呼ばれた種子の貸付の利息で、いわば、奈良の中央政府に提出するために地方諸国が作成した税に関する決算報告書でした。しかしこれは収支計算のみを内容にしており、まだまだ複式簿記と呼べるものではありません。

その後の800年くらい、日本の会計の歴史は「暗闇に包まれて」いるそうです。16世紀、鉄砲やキリスト教の伝来と同時期に複式簿記が日本に到達していたとする学説もあるものの、客観的にこれを裏付ける資料があるわけではない模様。

日本固有の簿記法が形を見たのは江戸時代で、各商家で独自の簿記法が発展していきました。

鴻池家、三井家など、いくつかの商家が独自の帳合法を確立させていった中で、白眉とされるのが『中井家』の帳合法とのこと。中井家の帳合法の定型は財産法をもってする利益計算だったそうですが、そこでの「大福帳」は各別冊帳簿で計算された内訳計算を合計転記する統制勘定や日々の記帳を行う損益諸科目などすべての口座を開設する総勘定元帳となっており、また、本店・支店の別の帳簿も備えていました。すなわち、中井家の帳合法は、多帳簿制複式決算簿記で合計転記によって総勘定元帳を完成させ、本支店合併決算をするものであったそうです。そんな仕組みを各商家が独自開発していたとは、やはり昔の日本人はなかなかすごい。

但し、これをもって西洋簿記的な複式簿記とまではいえず、決算は複計算構造を持っており日常の取引記録も取引複記が守られているため、複式簿記に必要な諸条件は備わっていながら、唯一、貸借複記の形式ではなかった点で複式簿記とは評価できないと見るようです。

ではなぜ日本の帳合法が貸借複記の形式を獲得できなかったのかといえば、それは、算盤が計算用具としてあまりに優秀で帳簿に計算機能を持たせる必要がなかった(=ただの記録で良かった)ことや、筆記用具が毛筆・墨・和紙で記帳スペースに制約があったことなどが原因と考えられるとのこと。なるほど、と思わずにはいられません。

以上からすると、江戸時代に複式簿記が成立したわけではないものの、複式簿記の萌芽はあったといえそうです。

結局、日本に複式簿記がきちんと定着するのには明治時代における西洋簿記の輸入を待たなければならなかったようです。なお、日本に簿記を最初に紹介した書籍としては1873年に出版された福澤諭吉の前出『帳合之法』が有名ですが、『帳合之法』は初編と二編から成り立っており、先に出た初編は単式簿記を紹介するものだったのだそう。日本で最初に複式簿記を紹介した書籍は、当時大蔵省に雇用されていたアレクサンダー・アラン・シャンドによる原稿が翻訳されて同年に出版された『銀行簿記精法』なのだそうです。恥ずかしながら、この歳まで日本で最初に複式簿記を紹介したのは福澤諭吉であると勘違いしていました。汗顔の至りです。

算盤が道具として優秀だったり筆記用具が毛筆と墨と和紙だったためにかえって日本固有の簿記が西洋の複式簿記に負けてしまった、というのは、なんだか日本人の細やかさや生真面目さが災いして諸事のデジタル化が遅れてしまっている現状に重なるような気がしてしまった晩夏のたそがれ時でした。

(最初の画像は東池袋大勝軒のラーメンの近影で、本文とは関係がありません。私が簿記との邂逅を果たした大学生時分は平日の昼間に2時間行列して食べるようなことが普通で、今は既に故人となった山岸一雄さんが現役でお店に立っておられてラーメンを作って出してくださりました。20年経っても人に忘れられない仕事、継いでいかれる仕事というのは凄まじいの一言です。)

(公認会計士・税理士 峯岸 秀幸)